オリオール・セルビア・イ・インベルス (Oriol Servià i Imbers, 1974年7月13日 - ) は、スペイン、カタルーニャ州ジローナ出身のレーシングドライバー。カタルーニャ工科大学卒。機械工学の学位を持つ。
ラリードライバーで政治家のサルバドール・セルビアはオリオールの父、シュレッサー・バギーで活躍したクロスカントリードライバーのホセ・マリア・セルビアは叔父にそれぞれあたる。
経歴
初期
多くの他のドライバーと同じく、セルビアは19歳でレーシングカートからその経歴を始めた。フォーミュラ3に数戦参加した後、1998年にアメリカでインディ・ライツに参戦する。1999年にはケイシー・メアーズとタイトルを争い、チャンピオンを獲得した。シーズンでの優勝は1度も無かったが、コンスタントに入賞した結果のチャンピオンであった。
2000年、セルビアはクリスチアーノ・ダ・マッタのチームメイトとしてPPIモータースポーツに加入し、チャンプカー・ワールド・シリーズに参戦する。翌年にはシグマ・オートスポーツに移籍、さらに2002年にはパトリック・レーシングに移籍した。2004年にはデイル・コイン・レーシングに移籍し、第11戦のラグナ・セカでは3位とそれまでで最高位に入賞した。また、2002年のインディ500ではウォーカー・レーシングおよびコンクェスト・レーシングからプラクティスに参加したが、いずれも予選不通過となった。
2005-2006
2005年シーズンはデイル・コイン・レーシングで継続参戦したが、2戦を終えた後、ブルーノ・ジュンケイラが負傷により離脱したニューマン・ハース・レーシングに移籍することとなった。2005年8月28日、セルビアはモントリオールにおいてチャンプカーでの初勝利を挙げる。この勝利は論議を呼ぶこととなった。ティモ・グロックがセルビアのアタックをかわすために最終シケインをショートカットしてブロック、次のアタックに対しても同様の動きをしてブロックした。グロックはこのアンフェアな行為に対して警告を受けた。この年セルビアはチームメイトのセバスチャン・ボーデに次ぐ2位でシーズンを終えた。翌2006年はPKVレーシングに移籍、イギリス人ルーキーのキャサリン・レッグがチームメイトとなった。また、チームの共同オーナーであるジミー・バッサーがスポット参戦した。セルビアはシーズンを11位で終え、表彰台はクリーブランドでの3位のみであった。
2007
2007年シーズン、セルビアは負傷したポール・トレーシーに代わってフォーサイス・チャンピオンシップ・レーシングに加入、第2戦から参戦した。新型のパノス・DP01をドライブする時間は僅かだったにもかかわらず、2位に入賞した。続くヒューストンでは4位に入賞、トレーシーは第4戦のポートランドから復帰したが、セルビアはマリオ・ドミンゲスの後任として残るレースを戦うこととなった。フォーサイスでの11戦で2度の表彰台、4度のトップ5を達成する。第9戦のサンノゼでは42周のラップリードを保ち、3位に入賞した。しかしながらチームは2007年9月12日にメキシコ人ドライバーのデヴィッド・マルチネスの起用を発表した。幸運にも10月にPKVレーシングがトリスタン・ゴメンディに代わるドライバーとしてセルビアを指名した。セルビアは13戦の内12戦をトップ10でフィニッシュし、開幕戦には参加できなかったもののシーズンを6位で終えた。
2008
2008年1月3日、PKVレーシングは2008年シーズンにセルビアを起用することを発表した。しかしながら、チャンプカーとIRLの統合により、チャンプカー参戦予定であったセルビアとウィル・パワーはKVレーシングの名前でインディカー・シリーズに参戦することとなった。
セルビアは2008年のインディ500で25位からスタートし、11位でフィニッシュした。セルビアはレースの大半を15位以内で走行した。1週間後、彼はミルウォーキーで目覚ましい走りを見せる。レース序盤でエンリケ・ベルノルディと接触し26位に沈んだものの、再スタート後は猛烈な追い上げを見せて6位でフィニッシュした。不調に終わったアイオワ、テキサスの後 、デトロイトでは4位に入る。シーズン最終戦のシカゴではCDWが新たなスポンサーとして加わった。
このシーズン、セルビアはトップ10で7回完走し、トップ5には5回、4位が最高位であった。
2009
2009年はレギュラードライバーとして参戦することができず、インディ500にレイホール・レターマン・レーシングから出場した。予選3日目に220.984mphで予選を通過したが、決勝では機械トラブルで26位となった。その後アンドレッティ・グリーン・レーシングでトニー・カナーンのアドバイザーを務めた後、ニューマン・ハース・レーシングから4戦に参加、もてぎでは4位に入賞した。
2011
2011年シーズンはニューマン・ハース・レーシングから参戦。ミルウォーキーで3位、ニューハンプシャーとボルチモアで2位に入賞し、ランキング4位でシーズンを終えた。
2012
2012年にはドレイヤー&レインボールド・レーシングへ移籍。チームは第5戦のインディ500よりパンサー・レーシングと提携したが、最高位はインディの4位、トータル287ポイントでランキング13位に終わった。
2013
2013年も引き続き同チームより参戦。サンパウロでは4位を獲得するなどしたが、チームスポンサーの関係で途中から同チームから参戦できなくなったが、シーズン後半はパンサー・レーシングより参戦した。
2014
2014年シーズンはレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに第2戦から第5戦までスポットで参戦。その後新たに開催されたフォーミュラEにおいてドラゴン・レーシング・フォーミュラEチームより参戦している。
レース戦績
アメリカン・オープンホイール
CART/チャンプカー・ワールド・シリーズ
インディカー・シリーズ
- 1 同日に開催された
- 2 ノンタイトル戦
- 3 11週目に発生した多重クラッシュによりダン・ウェルドンが死亡。レースは中止となった
インディ500
フォーミュラE
参照
外部リンク
- Official Oriol Servia website
- IndyCar Driver Page




