大木 繁(おおき しげる、1888年(明治21年)11月29日 - 1947年(昭和22年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・宮川。

経歴

福井県出身。陸軍少佐・宮川源七の息子として生まれ、大木家の養子となる。高等小学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。

1913年(大正2年)12月、歩兵中尉に昇進。1917年(大正6年)6月、兵科を憲兵科に転じ憲兵中尉に任官し熊本憲兵隊分隊長となった。1918年(大正7年)6月、憲兵練習所を卒業し朝鮮憲兵隊分隊長に就任。1920年(大正9年)8月、憲兵大尉に進む。1925年(大正14年)8月、京城憲兵分隊長に就任し、広島憲兵分隊長を経て、1927年(昭和2年)7月、憲兵少佐に進級し東京憲兵隊付となる。1931年(昭和6年)3月、麹町憲兵分隊長に転じ、朝鮮憲兵隊司令部員を務め、1932年(昭和7年)8月、憲兵中佐に昇進。1933年(昭和8年)5月、大邱憲兵隊長に就任。1935年(昭和10年)8月、台湾憲兵隊長に転じ、1936年(昭和11年)12月、憲兵大佐に進む。

1937年(昭和12年)3月、関東憲兵隊長に転じ新京に赴任。同年12月、中支那派遣憲兵隊長に就任し、1938年(昭和13年)12月、大阪憲兵隊長に転じて帰国。1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進んだ。1941年(昭和16年)3月、中支那派遣憲兵隊司令官を経て、1943年(昭和18年)8月、陸軍中将に進級し憲兵司令官に就任。1944年(昭和19年)10月、関東憲兵隊司令官に転じて終戦を迎えた。その後、シベリア抑留となり、1947年4月に戦病死した。

栄典

  • 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位
  • 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位
  • 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位
  • 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

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